「学び、続ける 親鸞聖人の晩年における思想の深化」についてのご講義でした。
「現生正定聚」すこし理解できたような気がしてきました。ありがとうございました。
(非営利目的に限り転載・再利用・再配布自由→聖教電子化についてを御覧下さい)学習目的で使わせていただきました。お許しください。
現生正定聚
p.190 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
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93ここをもって『論註』に曰わく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに」とのたまえり。已上
94しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。
95ここをもって龍樹大士は「即時入必定」(易行品)と曰えり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註)と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。
歎異抄と関連している。
p.628 歎異抄
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四
一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
聖道の慈悲 浄土の慈悲
現生正定聚
釈尊が説いた涅槃は現世において得られる涅槃、親鸞の説いた現生正定聚の思想はそれを新たな形で提示したものと見ることができる。(資料・井上教授)
正像末和讃
康元二歳丁巳二月九日夜
寅時夢告云(井上教授の詳しいご説明)
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
以下、私の受取、間違っているかもしれませんが、備忘録として。
「いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって」 どういうことか、と思っていました、いそぎ仏になるとは。
現生正定聚、正定聚の位、この世に生きている間に必ず仏になる。
この世の仏で働くこと、称名念仏。
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり